1.はじめに
トルコは要衝の地を占めています。
中東と地中海沿岸地域の歴史はもとより、ヨーロッパとアジアの交流の歴史
においても重要な拠点として存在してきました。イスタンブールは、ローマ
帝国、東ローマ帝国、オスマン帝国の首都となった稀有の都市です。
しかし、日本人にとってはあまり馴染みのない国と言えるでしょう。
それはイスラム教の国であるから、というのがひとつの理由かも知れません。
西洋諸国の植民地主義の流れに沿ってキリスト教文化が日本に移入されまし
たが、イスラム教文化は日本には移入されませんでした。
かつて大帝国の栄華を誇った国、イスラム教の国、イスラム圏では世俗主
義の近代国家をいち早く建設した国、低迷する経済に苦しんでいる国、大変
親日的と言われる国、..には興味が尽きません..などというしかつめら
しい関心に突き動かされたわけではなく、短期間の観光を楽しんできました。
ちなみに、往復のフライトはカタール航空でした。
ドーハでは乗継ぎの待ち時間を利用し、3時間ほど市内観光を楽しみました。
←駱駝市場
↓ドーハの旧市街
2.トルコの地理概観
まず、トルコはどのような位置にあるのか、をざっと眺めてみます。
北は黒海、南は地中海、西はエーゲ海に面しています。陸地で接しているの
は、西のギリシャ、ブルガリア、東のグルジア、アルメニア、イラン、南の
イラク、シリアの7カ国です。
東部のイラン国境近くには、ノアの方舟が辿り着いたと言われるアララト
山(国内最高峰で標高5,137m)があります。キリスト教発祥のエルサ
レムは、イスラム教発祥のメッカ(この地図の枠外、右下方)よりも近くに
あります。なお、メソポタミア文明を育てたチグリス川・ユーフラテス川の
源流は、東部の高原に発しています(ということを、この地図の作成にあた
って知りました)

今回訪問したのは、左図
●印の
イスタンブール、トロイ、エフェ
ソス、パムッカレ・ヒエラポリス、
コンヤ、カッパドキアです。
3.イスタンブール
北の黒海と南のマルマラ海はボスポラス海峡で結ばれています。
ボスポラス海峡の東はアジア、西はヨーロッパと言われています。マルマラ
海はトルコの内海で、このマルマラ海とボスポラス海峡が結ばれる位置にイ
スタンブールがありますので、イスタンブールは東西の分岐点に位置してい
ることになります。
←ボスポラス海峡
↓
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かつての、パリ発「オリエント急行」の終着駅はイスタンブールでした。
イスタンブール駅の近くにガラタ橋があります。ヨーロッパ側に入り込んだ
金角湾に架けられ、手前の旧市街と対岸の新市街を結んでいます。
←イスタンブール駅
↓駅付近から見たガラタ橋
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ブルーモスクを訪ねました。
トルコ帝国が栄華を誇った17世紀初めに建てられたそうです。
高い尖塔が際立っています。このモスクは尖塔が6本あります。
本数はモスクの格式を表し、6本が最高だそうです。
←ブルーモスク
↓
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偶像崇拝を禁じるイスラム教では、
モスク内部に彫像などは施されてい
ません。
←モスク内部 ↓
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トプカプ宮殿では、86カラットの巨大ダイヤモンドなど、多数の宝物を
見て溜息をつきました。
イスタンブール(かつてのコンスタンチノープル)は要衝の地にある故、
激しい戦闘の場となりました。高い城壁と石垣が長距離にわたって残ってい
ます。
←マルマラ海側の城壁
↓
4.トロイ
内海のマルマラ海と西のエーゲ海とはダーダネルス海峡で結ばれています。
イスタンブールから西に向けて、北海道のような田園風景を眺めながら走り、
対岸が目と鼻の先にみえるダーダネルス海峡を渡ると、間もなくトロイの遺
跡に着きます。
←ダーダネルス海峡
↓トロイの城塞復元図(掲示板)
(紀元前18〜13世紀)
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トロイは海岸の近くに、紀元前3,000年頃から砦が築かれたそうです。
何度も古い砦が壊されては新しい砦がその上に築かれ、その数は9層になっ
ているそうです。
←エーゲ海を望む
↓古い煉瓦の壁
←古代ローマ時代の遺跡
↓
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その昔、トロイア戦争がありました。
トロイアは、アガメムノンを総大将とするギリシャ勢に敗れました。紀元前
13世紀頃のようです。トロイアの敗因は、ギリシャ軍兵士の隠れていた木
馬を迂闊にも城内に引き入れたためだそうです。
←トロイの木馬模型
↓
←ギリシャのアキレスが奮闘した場所
↓木馬が引き上げられた坂道
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トロイの遺跡はドイツ人のシュリーマンによって発掘されました。
シュリーマンはトロイの遺跡を発掘すると(1873年)、すかさずギリシ
ャのミケーネ遺跡も発掘しています(1876年)。
ミケーネ遺跡については
こちら をご参照ください。
5.エフェソス
エフェソス(エフェス)遺跡の近郊に、アルテミス神殿址があります。
120年もの歳月をかけて建設され、アテネのパルテノン神殿を上回る規模
の神殿は、高さ19メートルの白大理石の円柱127本からなり、その壮大
さは世界七不思議の一つだったそうです。現在は柱が1本だけ残っています。
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クレオパトラと骨肉の争いをした
妹のアルシノエは、アルテミス神殿
に逃避していたそうです。
←アルテミス神殿址
なお、エフェソスには聖母マリアが晩年に住まわれたそうです。
エフェソス遺跡近郊に聖母マリアの家、聖母マリアの墓、聖母マリア教会が
ありますが、今回は訪問していません。聖地の存在はバチカンも公式に認め
ており、1979年には当時のローマ法王がこの地でミサを執り行ったそう
です。
それでは、エフェソス(エフェス)の遺跡を散策してみましょう。
ここは紀元前10世紀頃から街作りが始まり、アレキサンダー大王の統治を
経てローマの属領になったそうです。
←アゴラ址
↓クレテス・ストリート
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クレオパトラとアントニウスが結ばれていた頃、この辺り(現在のトルコ
西部)はアントニウスが支配していたようです。二人は手を取り合ってこの
街を歩いたのかも知れません。
←公衆トイレ(下には水洗用の深い溝)
↓図書館へ向かう坂道
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なだらかな坂道を下ると、突き当りに図書館址がありました。
アレキサンドリアの図書館、ベルガモの図書館と並ぶかつての世界三大図書
館のひとつだそうです。羊皮紙はエフェソスで発明されましたが、それはエ
ジプトがパピルスの輸出を禁止したためだそうです。
図書館前を右に折れて大理石の敷き詰められたマーブルロードを少し進む
と、男の願いを叶える男子専用の宿の道標が残っています。足の方向は進む
べき方向、足の大きさはそれ以上の大きさの男子に限ることを表しているそ
うです。商業アゴラが隣接していた場所なので、宿の客は多かったことでし
ょう。(図書館からは地下通路が宿につながっていたそうです)
←セルシウスの図書館
↓求道者への道標
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クレオパトラは、妹や弟と骨肉の争いをしました。
妹のアルシノエは、クレオパトラによって殺されたようです。そのアルシノ
エの墓の場所が最近明らかになったそうです(2009年に放映のNHKス
ペシャル)。セルシウスの図書館の少し手前です。
←アルシノエの墓所
↓商業アゴラのあった付近
←大きな円形劇場
↓長く延びている道路
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エフェソスの街は広大な広がりをもっていました。
まだ発掘の終わっていない部分がかなり残っているそうです。
6.パムッカレ/ヒエラポリス
温泉プールが楽しめる、と謳われていたホテルは盛況でした。
二階建ての客室は広い敷地に分散しており、屋根付きの長い廊下で接続され
ていました。私の泊った二階の部屋は、窓の前まで桑の枝が伸びていました。
カッパドキアでトルコ絨毯の店に寄りましたが、絹の絨毯の製作現場が展
示されていました。トルコの一部では現在も養蚕が行なわれているそうです。
←客室前の桑の葉
早朝に出発すると、間もなく白い
山が見えてきました。
↓白い冠雪の山?
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山を覆っているのは雪ではなく、石灰でした。
パムッカレ石灰棚です。高さは160メートル、長さは2.7キロメートル
もあるそうです。どうしてこのような石灰棚が形成されたかと言えば、炭酸
カルシウムの溶け込んだ地下水が熱せられて温泉として湧きあがり、石灰が
沈んで地表が固まるのだそうです。
ここは現在でも温泉が流れ出ており、足湯を楽しめます。
←足湯に浸かりながら撮影
↓遥か麓に住宅地
↓純白の石灰棚
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ここの観光スポットは石灰棚だけではありません。
石灰棚は、この地域全体に建設されていた古代都市ヒエラポリスの一部です。
案内掲示板の写真によれば、ヒエラポリスはかなり大きな都市でした。古代
の温泉保養地だったようです。
↓紀元前3世紀頃のヒエラポリス復元図(掲示板)
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上図で、
Aは上の棚田の写真を撮影した場所です。
Eはアゴラ(市民広場)です。
B〜
Dは次に説明します。
石灰棚見学の次に、古代プール
Bに向かいました。
写真の中央正面まで、200メートル位あります。右側は博物館です。
↓石灰棚からプールへ
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プールの中にはかつての建物の石柱が
沢山沈んでいました。
あのクレオパトラが、見事な裸身をここ
で披露したのかも知れません。
↓古代プール
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プールの横から奥の山手方向を見ると、アポロン神殿
Cの遺跡が目に入り
ました。右手奥にはすり鉢状の劇場
Dも見えました。
←アポロン神殿(右手奥には劇場)
↓別の位置から遠望した劇場
7.カッパドキア
カッパドキアでは洞窟ホテルに泊まりました。
天井や壁の装飾は岩を削ったレリーフです。夏は涼しく冬は暖かいようです。
←洞窟ホテル
一般家庭でお茶をよばれました。
カッパドキアでは農業に従事している人が
多いそうです。
↓チャイをよばれた一般家庭の家
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キリスト教徒が隠れ住んだと言われる地下都市で汗を流しました。
キリスト教徒は、初期の迫害時代に教会と生活空間を岩や地下に作り、イス
ラム教徒が迫ってきたときにはそれを拡張したそうです。
生きるための凄まじい執念に感服しました。
←8階建てのカイマクル地下都市
↓
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カッパドキアの奇岩は、約6,000万年前に遡るそうです。
火山の噴火で堆積した溶岩が、長年の風化によって奇岩を形成したようです。
カッパドキアとは、(紀元前17〜12世紀に栄えた)ヒッタイトの言葉で
「美しい馬の国」を意味するそうです。
←キノコ岩
↓眼下に林立する奇岩
8.伝統楽器
旅行の途中、バスの中でトルコ音楽を聴きました。
その中で、日本の横笛とは少し音色の違う笛の曲がありました。現地ガイド
さんに尋ねると、ネイという伝統楽器があり、コンヤという街のメブラーナ
博物館に展示されている由。確かに、博物館には大小の笛が展示されていま
した。それは横笛ではなく、縦笛でした。
私は横笛があれば買いたいと思い、最終日にイスタンブールの旧市街で探
してみました。何度か尋ねたところ、英語の話せる若い美人の女性が「ガラ
タ橋を渡ればいろいろな楽器を売っている店が沢山あるわよ」と教えてくれ
ました。往復するには少し時間が足りないので迷っていたところ、通りかか
ったイスタンブール駅の近くに楽器屋さんがあったので入ってみました。

この店にも横笛はありませんでした。
そこで記念にと思ってネイを買いました。
英語の教則本とビデオ付きで100トルコリラ
(約6千円)でした。葦で作った笛です。
←ネイ ↓メブラーナ博物館
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今回の旅行では、どこかで笛を吹いてみたいものだと思っていました。
エフェソスで円形劇場を見たときはいいポイントだと思いましたが、その時
は笛を持っていませんでした。
そこで、カッパドキアの視界が広がったパノラマポイントで吹きました。
←パノラマポイントからの
眺め
もう一度ギリシャに行く
ことがあれば、エピダウロ
スの円形劇場を借り切って
みたいものです。
9.おわりに
トルコはイスラムの国なのだ、と実感したことのひとつは、ホテルのレス
トランでベーコンとソーセージが見当たらなかったことでした。イスラムの
伝統を厳格に守っているというコンヤでは、葬式の列を見かけました。女性
は参列できないそうです。
駆け足の旅行では、ごく表面の一部を見ることしかできませんが、全体的
な感想としては、あまり窮屈な国ではなさそうです。
意外だったのは、キリスト教の存在です。
イスラム教はキリスト教に対して案外寛容なのではないか、という感じがし
ました。かつての東ローマ帝国の本拠地であったこと、聖母マリアと聖ヨハ
ネの史跡が残っていること、カッパドキアで多数のキリスト教徒が生き延び
たこと、などの歴史的事実からみても、1923年のトルコ共和国成立のと
きに世俗主義を採ったのは必然性があったのかも知れません。
トルコ料理は世界三大料理のひとつなのだそうです。
感想としては、納得できませんでした。安物のパック旅行だったのが原因か
も知れません。トルコには歴史遺産が多数あり、今回はその一部をざっと眺
めてみただけなので、いずれじっくり見学したいものです。うまいトルコ料
理に舌鼓を打ちながら。
(散策:2010年11月12日〜11月19日)
(脱稿:2010年12月31日)
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